Smalltalkのあるべき姿

Objective-CRubyを見ていると、明らかに言語はSmalltalkに近づこうとしているようです。ではなぜSmalltalkではダメだったのか。思うと、すべてをしようとするところにSmalltalkの他者を受け入れない非寛容性があるような気がします。"Everything is an object"は美しいのですが、現実はプレインなメモリ空間とインストラクションセットから成り立っていてオブジェクト表現される前の方が得意とする演算というものも存在するし、スクリプティングしたいときには、GUIは必要ないわけです。言語とオペレーティングシステムとネイティブライブラリとユーザーインタフェースは直交すべき概念と思います。例えば、SmalltalkCocoaを使ったGUIを記述できるという関係が本来あるべき姿。RubyRubyCocoaでとてもうまく進んでいると思います。後は、そういうヘテロな状況で、プログラミング環境として他の追従を許さないSmalltalkのクラスブラウザをうまく実現できるかどうかですね。プログラマが、VMが司るイメージの世界に住むのか、外からソースコードで介入するのか、おそらくどちらでもない絶妙の位置をデザインしたとき、理想的な環境が生まれるような気がします。