私が知りたいことその2

ラマチャンドランの新しい本が出ていると聞いて、早速読みました。

脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ

脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ

脳のなかの幽霊 (角川21世紀叢書)

脳のなかの幽霊 (角川21世紀叢書)

とかぶる話が多かったですが、神経美学/哲学の部分により力点を置いていて、読み直せば著者の知見の変化等読み取れるのかもしれません。
著者は脳梁を切断した人の右脳が原始言語のようなものを持っていることを示し、また別の観察で、ある人の右脳と左脳に「神を信じるか」質問したところ、右脳は「いいえ」左脳は「はい」と答えたそうです。右脳が「神」という語彙を持っていることをどうやって確認したのかに一番興味があるのですが、改めて、脳の中の演算はやはり、コンピュータのように論理的な演算が行われているというより、多数決というか微妙な量的バランスの結果という気がします。
脳科学で色々なことがわかりつつあるようですが、にもかかわらず、茂木健一郎さんと同様に意識や自己に対して説得力のある見解が得られる気はやはりしません。
もしかしたら、脳の構造とは別に、言語が成立するためのある種の最低限の公理的性質を仮定すると、意識とか自己とか神とかが必然的に生まれるのかもしれないと思いつきました。
例えば、進化の過程の中で道具を使うことを覚え、伝えるようになって、脳の構造の中でまねたり、強いては作ったりする部分が発達すると、言語習得の初期の段階で、それらの概念を強く受け入れる可能性がある。親の真似をしたり話したりするうちに、その行為自体に言語が割り当てられると、語彙の中でも強い意味を持つ可能性があると思います。原始的な欲や感情表現の次に「作る」という言葉を学習するとすると、何かを理解する際のベースとして「作る」という言葉を使うようになる。その結果、創造主という概念が半ば必然的に生まれるのではないかと思いました。
神や意識という言葉の存在とそのものの存在は言語的には別物で、だからこそ「神の存在を信じる」という命題が生まれるのですが、言葉が言語野に生まれた時点で、いやおうなく時に応じてその言葉が活性化するのですから、人は人に意識があろうとなかろうと、意識について考えざるを得ない存在になっているのです。

というわけで私は今読むべき本は言語学かな・・・