言語情報の記憶過程とリアリティ

最近、言語情報からリアリティを全く感じなくなりました。元々情報はリアリティを持ちませんから以前の感覚が異常だったと言えばそれまでですが、間違いなく20代までの頃は活字情報をリアルに感じていた。
経験が少なくて、得た情報を過去の経験から分析整理して記憶することができないとき、そしてその情報を否定できない大きな感情を伴うとき、情報を丸呑みすることになります。丸呑みした情報はリアリティを持つ。これは情報の種類には依らず、フィクションでも科学でも起こります。司馬遼太郎さんの「龍馬がゆく」が多くの人たちに愛されるのは、まさに情報を丸呑みすることになるから。(リアリティと史実は別物です。)背理法帰納法もそうですね。特定の量の経験を持った年代に丸呑みした人たちだけが論法にリアリティを感じます。
他の実体験はすべてそれなりにリアリティを伴いますが、言語経験だけは、それがリアリティを持つかどうかは、自分の内部状態に依存する。
かつて、言い表せない自分の感情を見事に言葉にしてくれる表現者を求めて書物を漁り、気に入った文章を集めていました。言葉を必死に求めていたのが、気がつくと言葉からリアリティを感じなくなっている。皮肉なものです。経験(特に言語経験)を積み過ぎたということですね。
言語経験で鈍くなった頭を白紙にして感覚を研ぎ澄ますよい方法はないものか。