信じること、考えること、感じること

思うところあって、「世界の名著〈51〉キルケゴール (1979年) (中公バックス)」を久しぶりに開きました。「不安の概念」と「死にいたる病」のタイトルだけに惹かれて何度となくパラパラと眺めた記憶があります。1990年の版だからやはり大学院生のときですか。感情の論理を構築せずにはいられないパラノイア的思考に哲学を感じました。
命の危険が回避不可能なまでに近づくと起こる恐怖という感情があります。それとは別に不安という感情がある。不安というのは精神的自家中毒で、自分の想像の刺激による恐怖と思えます。考えた結果自分にとって好ましくないことが起こりそうと想像し、その状況に理性で対応しかねるときに発生する。この感情を大上段に受け止めて分析を始めてしまうとキルケゴールのような哲学が生まれるのでしょうね。考えることによって生じる感情を考えることでねじ伏せようとする。
大衆化した宗教は逆のことを勧めます。考えないこと。考えなければ不安にはならない。考えないようにするために、信じることの大切さと説いたり、悟りという言葉を使ったり。
どちらも大変な道です。大脳はいやでも考えるし、かといって脳幹をねじ伏せるほど強力でもない。
私はと言えば、感情を大切にしたいという気持ちがありますね。それがたとえ、怒りや苛立ち、不安や焦り、怠惰、喪失だとしても。感じすぎると往々にして何かを失うことになりますが、かといって自分の中から沸き起こるものを否定するのも辛いところがある。「仕方がない」という言葉が好きです。
考える、感じる、時々信じる。最善から遠ざかるような戦略ですが、それが凡人の取りうるバランスという気がします。
友よ、体に気をつけて。