問い続けるということ

自分が普通の人と違うなと感じることの1つに、疑問の不揮発性があります。いい大人になると、半年、1年前の質問に対して、自分の考えを話すと大抵変な顔をされます。そんなこと忘れるのが普通なのでしょうね。ところが、私は高校のときの疑問や大学生のときの疑問、受けた質問を未だにたびたび思い出しては、進展がないかチェックする。考え続けているわけではないのですが、忘れない。時間制限がないからと、永遠手を打たずにいては誰も相手をしてくれなくなります。
先月号の囲碁ワールドに、張名人についての記事がありました。それまでは、世界戦をターゲットに、即断ができるような訓練を続けてきたけれど、生活自体がせっかちになって、考えるべきところで考えられなくなっていた、それを修正して名人戦に挑んだというエピソードが紹介されていました。
名人の感覚とは較べるべくもないのですが、少なくとも秒を読まれるときの自分の苛立ちの原因がわかったような気がしました。
私は、結論より設問を愛しているのですね。どちて坊やの類と言えばそうかもしれません。