愛の周辺

今年の初めに、知人の協力もあって、mixiで少し対話っぽいことを試みました。それなりに考えていたことが活字にできていたので、はてなに記事を転用します。

  • 世界と主観(2007年1月1日)

さて、知人から「突き詰めると愛じゃないか」という意味合いの言葉を突きつけられました。正しく復唱している自信もないし、突きつけられたかどうかも定かではないですが、まあ、問題設定にあれこれ時間を割いても仕方がない。
知人はヴィトゲンシュタインからスタートしたようです.私には時間が有り余っているのですが、ヴィトゲンシュタインの著作そのものから勉強するほど有り余っている気もしないので、とりあえず、多少の用語の共通認識のため、『「私」のための現代思想』(高田明典著)から始めました。ヴィトゲンシュタイン独我論と私的言語考を展開したのですが、私的言語が存在しないことを結論し、他者が存在することに至ったそうです。
私にとっては、私という主観がこれだけ豊かな世界を構成する能力があるとは思えない(私には聖徳太子もチンギスハンもモーツアルトフェルメールアインシュタインゲーデルビートルズも生み出すだけの能力がない)ので、他者の存在、もしくは自分が他者の主観の一部であること故に自分以外の世界の存在、は明らかなのですが、いずれにしても主観があって、他者が存在するということは、これからの議論の前提とすることができそうです。
故に愛について考える価値がある。
愛という概念は私の中の日本人の魂が常に違和感を唱える概念です。それゆえに、この違和感が一体何処から来るのか明らかにしていきたいと思います。

  • 共通経験(2007年1月4日)

言葉で何かを伝えようとすると、実はその前に膨大な量の共通経験とその繰り返しが必要です。
http://d.hatena.ne.jp/yich/20070104
想像するに、共通経験の典型は、結婚して生活を共にして特に子供を一緒に育てることでしょうね。日常下でこれより濃厚な共通経験は存在しない。
他にも共通経験は色々あって、学校や会社での団体行動もあります。共通経験は必ずしも同時性は必須ではなくて、同じ映画を観たり、書籍を読んだりというものも共通経験になります。
共通経験はもっと広く考えることができる。例えると、宇宙論を考えるのに(信じるかどうかは別にして)一般相対論の理解が必須になります。この時、全員がアインシュタインの元論文を読む必要があるかというとそれはない。既に多くの名教科書が存在しており、「ワイル」でも「パウリ」でも「ディラック」でも「内山」でも「佐藤」でもその他でもどれか読んで理解すればいい訳です。理論をある程度展開する能力があれば、どの本読んだかは共通理解のためには問題ではないです。(「共通理解のためには」は非常に重要です。なぜならどの本を読んで知ったかはその人の思想に大きく影響するからです。)
多くの論文では、記述の省略のため特定文献の引用という手段が採られます。これは専門家に課せられた義務なのでしょうが、素人のように自力で考えるタイプには2つの点で相互理解を阻害します。
1.引用を読まずに理解することが不可能になる。
2.網羅的な調査をせずに自己表現することが不可能になる。
では、なぜ学問の世界ではこれを義務付けているのか。それは第三者が評価可能であることが前提になっているからだと思います.
ここで議論の中心に位置づけた「愛」に戻ってみます。
世界には、主観と他者が存在している。「愛」とは何か考える前に、「愛」が持つべき性質を考えると、主観と他者の世界の中で、「愛」は第一人称と第二人称の関係を表すものだと思います。何らかのプロセスを経て、他者の中から第二人称という特定の他者を生み出し、かつ、その関係において第三者の評価を必要としなくなっている。ちょっと論理が飛躍しますが、「愛」においては共通経験のための引用は必要なくなるのです。
相互理解のためには、共通経験が前提になるが、「愛」は共通経験を不要にする方向に働く。真偽不明ですが、ちょっと面白い結論が出てきました。

  • 理解と愛(2007年1月11日)

相互理解と愛の関係について考え続けていますが、なかなか収束しません。1つ気づいたことは、相互理解と愛はそもそも双対でないということです。問題をシンプルにするために、理解と愛の関係からスタートすべきと思いました。(不思議なことにここからスタートすると、理解も愛も主観の中で閉じて考えることができ、主観以外に「他者」が存在するかどうかは、理解や愛の対象が主観の内に存在するか外に存在するかという問題になります。これは「世界と主観」を考えたときとずいぶん違う視点になります。)
さて、理解と愛の関係と単純化してもすっきりするわけではなく、まさに「理解と愛の関係」を理解していないことを実感します。こういうときは、理解は示せないので材料を示してみます。

「そもそも、わかるとは「分かつ」と書きます。わかるの基礎は区別なのです。」『「わかる」とはどういうことか」山鳥
「違いにこだわることがなければ、私たちは上手に交流できるし、考え方を交換できるし、異なる経験を理解し合えるのです。」『こころの育て方」ダライ・ラマ14世

ヒントがありそうで、よくわからない。理解も愛も、満足につながるある種の感情であることは間違いないという感覚が存在します。なるほど、書いてみて、今、XXさんのコメント、愛と「自己の感情が満たされる」ことの関係が少し理解できました。

  • 渇愛(2007年1月16日)

XXさんから今まで考えたこともなかったアプローチを教えてもらいました。私も思い切って少し違ったアプローチを提示したいと思います。
「愛」は仏教用語では「執着」を意味します。よく使われる愛と区別するために「渇愛」と表現されることが多いです。仏教では渇愛から苦しみが生まれると説きます。では、愛と渇愛は同じ記号を使ってしまっただけで、全く別物なのか、というとそうは断言できないところがあります。
戦争や紛争では、(大局的な政治的戦略に目をつぶって局所戦を見ると)愛する者を殺された結果、渇愛が生まれ憎悪が生まれます。愛と渇愛は関係している。(日本人は渇愛を避けるため愛を避けてきた節がある。これはまた後ほどのテーマとして。 http://d.hatena.ne.jp/yich/20070122/1169474698
さて、渇愛という概念を説明しました。

若い時、とある女性とやり取りするのが楽しい時期がありました。(かまってもらえるのが嬉しいという稚拙な感情でこれは愛とは関係ありません。)その人から抱えている苦しみについて打ち明けられた時、なんとかして救いたいと思いました。後から思えば、この時、渇愛と出会い、渇愛を抱えた訳です。相手は自分を癒すモノを切望し、私は凡人の好意を注ぎましたが、まるで砂漠にコップ一杯の水を注いだような感じでした。相手の苦しみを理解しようと反芻し、苦しみは想像の中で増大していきました。それでも果たして少しでも理解できたのか。結局、自分には救えないと自覚し、救えない自分を救うことに時間を費やしました。
ということが、仮にあったとしよう。
このプロセスの中に、果たして(自己愛以外の)愛はあったのか、あった場合、それは相互理解になんらかの寄与をしたのだろうか。
他人の苦しみを理解するのに愛は有効なのだろうか。理解しなくても愛で寄与することが可能なのか。
こういう問題設定をした時から、自然科学や哲学に限界を感じるようになりました。かといって宗教に解を見出せた訳でもないのですが。
全然、話は飛びますが、猫と暮らしてみて、普段、言語に頼り過ぎているという確信を持ちました。他人の苦しみはわからなくても猫の苦しみはわかったような気がする。この「わかったような気がする」という感覚が「互いに完全理解が得られない世界に生きる上で」の、とても頼りない、私の唯一の拠り所です。