ノイローゼ

いつか表立って表現する機会があればと思っている話が2、3あるのですが、そのうちの1つを語る時期が来たようです。
小学生の低学年の時、運動会の予行演習の行進で、必死になって頑張ってもみんなと歩調が合わず、合わない数人が教室で立たされました。そのとき、「XXは一生懸命合わせようとしているから仕方がないが、他の人はちゃんとまじめにやりなさい!」と先生がしかるのを聞いて、自分一人人並みのことができないのだとぼろぼろ泣いた記憶があります。それで、「このぐらいのことで泣くな」と私も叱られた(笑)。
今思うと、合わせようとする意識が強すぎたのでしょうね。幅10cmの線の上を歩くのはわけないのですが、その線が高層ビル間の渡りだったら歩けなくなるのと同じです。
この感覚は今でもあって、日常的なことで頼られたりしたとき(パソコン修理してとか車のナビしてとか)、自分の予定の流れから外れたりすると、失敗するかもしれないという不安感から汗が噴き出します。お願いされることが簡単な時ほどこの感覚が大きくなる。そういえば、アメリカ駐在の際に、マクドナルドでドレッシングを選べと言われた時、どうしても名前が聞き取れなくて、汗が噴き出したのを思い出します。
誰だってできるはずだというのがプレッシャになって、できるはずのことができなくなるのだから心の作用というのは面白いものです。
私の中のよくわからないコンプレックスは、小学生の時の「人並みのことができないのだ」という気持ちから、人より多くの努力をするようになって、「自分は人より優秀なはずだ」という気持ちに変容したようです。コンプレックスであることには変わりなく、それがおかしなプレッシャを生み出している。だから誰でもできるはずのことは今でも苦手。逆に誰がやっても難しいことは、普通の人は失敗が目に見えているのでしたがりませんが、私は喜んでする傾向がある。
コンプレックスを「自分は人より優秀なはずだ」という形に維持するためには、自分に厳しくなります。ところが自分に厳しくなっても人並みのことが苦手なことには変わりないので、人にやさしくなる。
ここでまた面白い現象が出るのですが、自分と人の境界が文字通り自分と人の間にあればいいのですが、実際には厳しさが漏れていて、近親者や仕事上の関係者に厳しさを向けてしまうことがあります。
人に厳しさを向けてしまうと、自分への厳しさが更に増します。これがまた面白い作用を生みます。
最近、体臭ノイローゼにハマっています。近くで鼻をすすられると、自分に原因があるのではないかと思ってしまう。最初戸惑いましたが、心理学関連の本をたくさん読んでいたおかげで、「なるほど、これがノイローゼか、面白い。まるで自分はすごく感度の高い鼻音センサ。」と冷静になることができました。少しは気にして身ぎれいになったほうがいいのでしょうね(笑)。何も知らなかったら自分がどうかしてしまったのかとびっくりすると思います。これも結局、人にまで厳しくした結果、自分に跳ね返ってきた厳しさから生み出されたものが自分を追いつめようとする作用と分析しています。体臭ノイローゼに関しては、子供と遊ぶのが一番効果がありました。子供は正直と思えるから、小さいころから遊んでもらっている高校生からバーベキューの際に「おっちゃん酒臭い」と言われたり、姪っ子から甘えてもらったりすると、そんなものかと不安感が消えていきました。今は、「日本人の4分の1とか言われている花粉症なんて比じゃないぐらい大勢の人が鼻すすっているもんだ」という感じ。ちなみに欧米では鼻をすするのはマナー違反のようです。花粉症の人、大変ですね。

総じてまとめてしまうと、感受性が強いのでしょうね。強いこと自体にいいも悪いもなくて、普通の人が感じないような幸せを感じることもあれば、普通の人が感じないような苦悩もある。(何が普通かはよくわかりませんが、40過ぎても普通とは違うという感覚は未だにあります。)
カテゴリ「心」と題して、自分の感情経験を少しずつ振り返ってみたいと思います。