私訳歎異鈔

慈悲には鍛錬による救済と約束による救済の境があります。鍛錬の慈悲というものは、生きとし生けるものを哀れみ、悲しみ、育むものです。けれども、どんなに鍛錬をつんでも思い通りに救済を遂げることはほとんどできそうにないことです。約束の慈悲というものは、ただ祈り、そして自らの命を超越するところとなって、大慈大悲心そのものとなって、心底願う通りの、生きとし生けるものの救済を表しているはずなのです。この世に生きている間にどんなに愛おしく可哀想と思っても、助けることは難しいのは当たり前のことですし、この慈悲には終わりはありません。そうだとしたら、祈り約束することのみが終わりまで続く大慈悲心でありましょうなどなど。

自分で現代語訳してみてわかったのですが、親鸞は結局、慈悲には、聖道と浄土と始終のない慈悲と3種類あると言っているのですね。私は終わりのない慈悲を信じます。