善の研究

善の研究 (岩波文庫)

善の研究 (岩波文庫)

昔に買った本を開いてみると、今となっては理解に手間がかかる本が多いですが、中には逆に、昔は難解だと思っていたものがすらさらと読めたりすることもあります。「善の研究」はその代表例。詳細の部分で「いや私はこう考える」という部分はあっても、問題設定と論理展開、関係展開などまるで自分が考えてきたことのように錯覚します。意識と科学と宗教性の不分離性の感覚が同じなのでしょうね。二十代の時には絶対に理解できなかったはず。
改めてパラパラとめくってみて、最後の章が「知と愛」だったとは知りませんでした。過去に何度か開いていたはずですが、ここまでたどり着かなかったのでしょう。知と愛とは、主客合一という同じ精神作用であり、対象を非人格的か人格的か便宜的に区別すると生まれる差だけ。

而して…宇宙実在の本体は人格的の者であるとすると、愛は実在の本体を捕捉する力である。ものの最も深き知識である。分析推論の知識は物の表面的知識であって実在その者を捕捉することはできぬ。我々はただ愛に由りてのみこれに達することができる。愛は知の極点である。

このまどろっこさ(笑)(失礼、西田先生)。41歳の西田先生には、宇宙が愛の対象となりうることは仮定であって、演繹するには至らなかったようです。これが哲学と宗教の境界でしょうか。
つくづく、この種の思想、哲学は、超越数有理数列で近似するような作業だと思いました。でも、近似が成立するという感覚が、知り得ないものの存在の知覚そのものになります。