あのフレスコ画に思う価値の創造 - 価値はモノそのものではなく文脈が産み出す。


あらすじ

画家のElias Garcia Martinezさんが100年前にキリストを描いたフレスコ画がスペイン ボルハのMisericordia 教会にありました。作品は特に評価を得たものではありませんが、地元では大切なものだったでしょう。傷みがひどく、管理団体がMartinezさんのお孫さんから修復のための寄付を受け取ったところでした。
80歳になる近所の女性Cecilia Gimenezさんが、教会の司祭から許可をもらって、信者が見守る中、このフラスコ画の修復を行ないました。その結果、笑えるほどひどい状態になりました。管理団体は法的処置も検討するとのこと。
絵は世界的に話題を呼び、コラージュ、Tシャツ、マグカップと商品化が続いています。
この絵によって教会は観光名所となり、入場料を課すようになりました。
Gimenezさんには先天性筋ジストロフィーを負った息子さんがいて、Gimenezさんの弁護士は、同じ病の人々を助けるチャリティのため著作権の行使が可能か検討を始めました。

思い、考えたこと

著作権法的にも興味深いですが、私の興味は「経済的価値がどこで生まれたか」です。細かい事実は目をつぶって、ざっくりと事象を抽出すると、

  • オリジナルの絵には経済的価値はほとんどなかった。
  • 宗教画だった。(地域の愛着があった。)
  • 修復の許可に関して齟齬があり、話し合いで済まなくなった。
  • おばあちゃんがまじめに修復した。
  • 修復の結果が笑えた。
  • インターネットが「事件」を世界中に伝えた。修復の結果を「評価」する人が大勢出た。


人の絵のまずさを笑い者にして価値が生まれているところに若干の品のなさを感じないわけでもありませんが、岡本太郎さんの言葉「下手の方がいいんだ。笑い出すほど不器用だったら、それはかえって楽しいじゃないか。」の通り、素直に笑えばいいかと思います。というか、上記リンクのコラージュ思い出すだけで今も笑いがこみ上げてきてしまって。


まず、Gimenezさんの絵そのものに価値があるのでしょうか。Gimenezさんがオリジナルで書いたとしたら。これがわからない。間違いなく「なんだこれは!」インパクト十分で、(絵画を全く知りませんが)誰風でもなくGimenezさんオリジナルを直感的に感じます。でも価値の主要部分である笑いを絵そのものが持っているかというと疑問が生じます。元の絵との対比こそが笑いの源泉。「この人を見よ」というキリスト教信者にとっての悲劇が何か別のものに置き換わってしまっています。


ではこの笑いは万人のものかというと、きっと違います。この面白さおかしみを感じるには無知である必要があります。地元に住んで教会に通い、いつも元の絵を見ていたら笑えないと思います。当事者ではない者だけが見いだすことができる価値。


この文章を書き始めた時には、コントのような出来過ぎたストーリこそのこの絵の価値と思いました。今は、無価値なものを別の文脈から見た時価値が生じる可能性の方を強く感じます。岡本太郎さんが縄文土器の美を発見したように。価値はモノそのものではなく文脈が産み出す。
これはおそらく計算できるものではないのでビジネス思考に使うことはできませんが、それでも世の中にはこういう価値の創造がありうることを頭の隅においておかないといけないのかもしれません。というか、こういうことが起こるから、世の中面白い!ですね。



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